会社を売る・引き継ぐとき、従業員はどうなる?事業承継・M&Aで確認したい労務と社会保険
浦松 丈二
社会保険労務士・行政書士・宅地建物取引士(四葉社会保険労務士事務所/四葉行政書士事務所)
会社を売る・引き継ぐとき、従業員の労働契約や社会保険・雇用保険がどうなるかは、M&Aの方式によって変わります。株式譲渡は法人が変わらないため原則そのまま、事業譲渡は労働者本人の個別承諾が必要、会社分割は労働契約承継法の通知・異議申出等の手続、合併は包括承継です。売る前・買う前に確認したい「労務の棚卸し(労務デューデリジェンス)」の項目を整理します。
結論(先に要点):会社を売る・引き継ぐとき、従業員の労働契約や社会保険・雇用保険がどうなるかは、M&Aの方式によって変わります。株式譲渡は法人が変わらないため、労働契約も保険の適用関係も原則そのまま続きます。事業譲渡は、労働契約を譲受会社へ承継するには労働者本人の個別の承諾が必要です。会社分割は、労働契約承継法の通知・異議申出などの手続に従います。合併は包括承継で、労働契約と労働条件も原則としてそのまま引き継がれます。そのうえで、売る側・買う側のどちらにも共通するのが、雇用契約書・就業規則・36協定・勤怠・未払い残業等・年次有給休暇・社会保険・雇用保険・労働保険・給与計算・退職金・労使協定を売買前に棚卸ししておく「労務の棚卸し(労務デューデリジェンス)」です。
M&Aを検討するとき、関心は「いくらで売れるか」「税務」「株式」に集中しがちです。一方で、従業員の労働契約、就業規則、36協定、社会保険・雇用保険の引き継ぎも、方式によって整理が必要な論点です。まず方式の違いを押さえておくことが前提になります。
事業承継・M&Aで、労務と社会保険はなぜ問題になる?
M&Aにはいくつかの方式があり、方式によって「何が承継されるか」「従業員をどう扱うか」「どんな届出が必要か」が変わります。社労士の視点で論点になりやすいのは、次の3点です。
- 労働契約の承継の要否・方法
- 就業規則・36協定・年次有給休暇などの労務管理の引き継ぎ
- 社会保険・雇用保険・労働保険の事業主変更に伴う届出
この記事では、まず方式ごとの違いを整理し、そのうえで「売る前・買う前に何を棚卸しすべきか」をまとめます。
方式で何が変わる?株式譲渡・事業譲渡・会社分割・合併を整理する
M&Aの代表的な方式を、労働契約・個別承諾等・法人の扱い・主な労務上のポイントで整理すると、次のようになります。
| 方式 | 労働契約 | 個別承諾等 | 法人の扱い | 主な労務上のポイント |
|---|---|---|---|---|
| 株式譲渡 | そのまま継続 | 不要 | 法人(事業主)は同一 | 事業主は変わらないため、適用関係は原則維持。労務リスクの把握が焦点 |
| 事業譲渡 | 個別に承継(特定承継) | 労働者本人の承諾が必要 | 譲渡会社と譲受会社は別法人 | 承諾のない労働者は譲渡会社に残る。承諾の実質性が問われる |
| 会社分割 | 労働契約承継法により、主従事性・分割契約等の定め・異議申出に応じて承継 | 通知・異議申出等の手続 | 分割会社と承継会社 | 主として従事する労働者かどうかで扱いが分かれる |
| 合併 | 包括承継 | 不要 | 消滅会社と存続会社(または新設会社) | 労働条件も原則そのまま維持 |
以下、それぞれの方式を順に見ていきます。
株式譲渡のとき、従業員と社会保険はどうなる?
株式譲渡は、会社(法人)そのものが変わるのではなく、その会社の株式が売り手から買い手に移る方式です。法人格は同一で、事業主である法人も変わりません。
したがって、従業員と会社の労働契約はそのまま継続し、社会保険・雇用保険・労働保険の適用関係も原則として維持されます。労働契約の承継のための個別承諾も不要です。
ただし、会社の実質的な支配者が変わるため、買い手は、売買の対象となる会社に未払い残業、未加入の社会保険、36協定の未締結・失効、就業規則の不備などがないかを事前に確認することがあります。株式譲渡だから労務は確認不要、ということにはなりません。
事業譲渡のとき、労働契約の承継には何が必要?
事業譲渡は、会社の事業の一部または全部を、資産・契約などを個別に特定して譲渡会社から譲受会社へ移す方式です。権利義務の承継は特定承継であり、労働契約は「物」のように自動的に移るわけではありません。
労働契約を譲受会社へ承継させるには、譲渡会社・譲受会社の合意に加えて、労働者本人の個別の承諾が必要です。承諾した労働者の労働契約だけが譲受会社に承継され、承諾しない労働者は譲渡会社に残ることになります。
厚生労働省の「事業譲渡又は合併を行うに当たって会社等が留意すべき事項に関する指針」(事業譲渡等指針)は、承諾の実質性を担保する観点から、労働者本人が真意で承諾できるよう、事業譲渡の状況、譲受会社の概要、新しい労働条件などについて十分に説明し、協議すること、過半数労働組合等との労使コミュニケーションを図ることなどを留意事項として示しています。
つまり、事業譲渡では「形だけの承諾」ではなく、労働者への十分な説明・協議を経て、真意による承諾を得ることが適当とされています。個別の取り扱いは、事業譲渡等指針と一次資料、専門家への相談で確認してください。
2026年5月、事業譲渡等指針は何が変わった?
2026年5月25日から、事業譲渡等指針の改正(令和8年厚生労働省告示第11号)が適用されています。これは法律の改正ではなく、指針の改正です。
改正のポイントは、企業価値担保権の創設等を踏まえ、事業譲渡における労働契約の承継について、労働者の承諾の実質性を担保し、労使コミュニケーションを促すことです。事業譲渡の状況や譲受会社の概要、新しい労働条件などの説明・協議、過半数労働組合等との労使コミュニケーションといった留意事項が整理されています。
なお、事業譲渡に、会社分割のような「通知・異議申出」という法定手続が新設されたわけではありません。事業譲渡の労働契約承継は、あくまで労働者本人の個別承諾が基本です。
会社分割のとき、労働契約承継法はどう働く?
会社分割は、会社の事業を別の会社に承継させる方式で、新設分割・吸収分割があります。会社分割の労働契約については、労働契約承継法(会社分割に伴う労働契約の承継等に関する法律)が特別のルールを定めています。
ポイントは、「主として従事する労働者かどうか」と「通知・異議申出の手続」です。
- 通知(第2条):分割会社は、労働者・労働組合に対し、分割契約等に労働契約の承継の定めがあるかなどを通知しなければなりません。
- 承継(第3条):承継される事業に主として従事する労働者の労働契約は、分割契約等に承継する旨の定めがある場合、会社分割の効力発生日に承継会社等に承継されます。承継されない事業に主として従事する労働者は、原則として分割会社に残ります。
- 異議申出(第4条・第5条):異議申出の方向は、どちらの労働者かで異なります。
- 主として従事する労働者が「承継しない」とされた場合(第4条):その労働者は「労働契約が承継されないこと」について異議を申し出て、承継を求めることができます。
- 承継されない事業に主として従事する労働者が「承継する」とされた場合(第5条):その労働者は「労働契約が承継されること」について異議を申し出て、分割会社に残ることを選択できます。
- 異議申出には期限が設けられ、通知日から少なくとも13日間の期間を置く必要があります。
つまり、会社分割は「主として従事する労働者は全員自動的に承継される」わけではなく、①どの事業に主として従事するか、②分割契約等に承継の定めがあるか、③本人による異議申出の有無によって、承継・不承継が決まります。個別の扱いは、分割契約等の内容と一次資料に照らして確認してください。
合併のとき、労働契約と労働条件はどうなる?
合併は、吸収合併・新設合併のいずれも、消滅する会社の権利義務が存続会社・新設会社に包括的に承継される方式です(会社法)。
労働契約についても、包括承継により消滅会社の労働契約は存続会社・新設会社に承継されます。事業譲渡等指針は、合併の場合、労働契約の内容である労働条件についてもそのまま維持されることを定めています。個別の承諾は不要で、労働契約・労働条件は原則として一体で引き継がれます。
社会保険・雇用保険の手続は、方式によって何を届け出る?
事業主や事業所が変わる場合、社会保険(健康保険・厚生年金保険)と雇用保険・労働保険の届出が必要になることがあります。必要になる届出は、方式だけでなく、法人の存続・消滅、事業所の存続・新設、承継の形態によって異なります。
- 株式譲渡:法人(事業主)は同一のため、原則として適用関係の変更はありません。
- 事業譲渡・会社分割・合併:法人や事業所が新設・消滅・変更されるかに応じて、新規適用、適用事業所の全喪、事業所関係の変更など、必要な届出が変わります。また、法人・適用事業所が変わる場合には、被保険者の資格喪失・取得等が必要になることがあります。
具体的な届出の種類と期限は、方式や形態で変わるため、日本年金機構・ハローワークの一次資料で必ず個別に確認してください。 なお、名称・所在地・事業主等の変更届には、健康保険・厚生年金で原則5日以内、雇用保険で変更の翌日から10日以内などの期限があります(あくまで変更届の例です)。
なお、会社をたたむ場合の手続は会社をたたむときの社会保険・雇用保険・労災の手続と期限に、会社をつくる場合の手続は会社設立と社会保険・雇用保険の加入手続に整理しています。
就業規則・36協定・年次有給休暇はどう引き継ぐ?
労働契約だけでなく、労務管理の前提となる規程・協定・記録も、方式に応じて取り扱いを確認する必要があります。
- 就業規則:事業譲渡・会社分割・合併などで事業主が変わるときは、新しい事業主のもとで就業規則をどうするか(既存のものを引き継ぐか、新たに作成・変更するか)を整理します。就業規則は常時10人以上の労働者を使用する事業場で作成・届出が必要です。詳細は就業規則は何人から義務かをご覧ください。
- 36協定:時間外・休日労働に関する協定は、事業場ごとに締結・届出するものです。事業主の変更や事業の承継に伴い、新しい事業主のもとで改めて締結・届出が必要になるか確認します。36協定の仕組みは残業の上限は36協定で決まるをご覧ください。
- 年次有給休暇:方式で扱いが異なります。
- 会社分割:承継される労働契約の労働条件は維持され、年次有給休暇の日数や退職金などの勤続年数も、分割会社におけるものが通算されます(厚生労働省資料)。
- 合併:包括承継のため、同様に労働条件・年次有給休暇・勤続年数は原則として引き継がれます。
- 事業譲渡:個別承諾による特定承継であるため、会社分割・合併のように包括承継を前提として一律に扱わず、労働契約の承継内容や継続勤務の扱いを個別に確認する必要があります。
- 年次有給休暇の考え方は年5日の有給休暇、なぜ取りきれないのかをご覧ください。
売る前・買う前に確認したい「労務の棚卸し(労務デューデリジェンス)」とは?
M&Aでは、財務・税務・法務と並んで、労務の実態を確認する「労務デューデリジェンス(労務DD)」が重要です。これは買い手だけの話ではありません。売る側も、売却を決めてから急に資料を整えるのではなく、売る前から自社の労務を棚卸ししておくことで、未整理の労務リスクを早期に把握し、取引や承継の後の問題を減らすことにつながります。
最低限、次の項目を棚卸ししておくことをおすすめします。
- 雇用契約書:労働条件通知書との整合、契約期間・更新の扱い
- 就業規則:作成・届出の有無、実際の運用との乖離
- 36協定:締結・届出の有無、限度時間の範囲
- 勤怠:労働時間・休日・休憩の記録の正確性
- 未払い残業等:時間外労働の実態と割増賃金の支払い状況
- 年次有給休暇:付与・取得・時効の管理状況
- 社会保険:健康保険・厚生年金保険の加入・届出・算定状況
- 雇用保険:加入・届出・離職票などの状況
- 労働保険:労災保険の加入・年度更新などの状況
- 給与計算:計算方法・支払い・控除の正確性
- 退職金:退職金規程の有無・引当の状況
- 労使協定:36協定以外の労使協定(変形労働時間制など)の有無
「労務を整えれば売買価格が上がる」といった因果関係を断定するものではありませんが、未整理の労務リスクを早期に把握することは、交渉の前提や承継後の安定のための確認作業です。
結局、売る側・買う側はそれぞれ何を確認すればよい?
最後に、立場ごとに確認事項を整理します。
売る側:
- 自社の方式(株式譲渡・事業譲渡・会社分割・合併)を確認する
- 労働契約・就業規則・36協定・勤怠・保険の棚卸しをする
- 事業譲渡なら労働者本人への説明と承諾の手順を確認する
- 社会保険・雇用保険の届出(全喪・廃止など)の要否と期限を確認する
買う側:
- 方式ごとに労働契約の承継の考え方を確認する
- 労務デューデリジェンスで未払い残業・未加入保険・協定不備を把握する
- 承継後の就業規則・36協定・給与・勤怠の整備計画を立てる
- 社会保険・雇用保険の適用・届出(新規適用・変更など)を確認する
四葉社会保険労務士事務所は、何を整理できる?
M&Aのニュースや「方式の違い」を知ることと、自社の従業員・規程・勤怠・保険を実際に棚卸しすることは別の仕事です。四葉社会保険労務士事務所は、方式そのものの法的判断や仲介ではなく、「この会社では、労務と社会保険で何を確認し、何を届け出るべきか」を整理することを大切にしています。労働契約・就業規則・36協定・勤怠・未払い残業・年次有給休暇・社会保険・雇用保険・労働保険・給与計算・退職金・労使協定の棚卸しと、承継後の届出・整備を、個別の会社の事情に照らして整理します。
なお、事業承継・M&Aには複数の士業・専門家が関わります。領域を混同しないよう整理すると、次のとおりです。
- 社会保険労務士:労務・社会保険・雇用保険等の手続、就業規則・36協定の整備、労務の棚卸し
- 弁護士:事業譲渡契約・会社分割・合併などの契約の法的判断、交渉、紛争対応
- 司法書士:商業登記
- 税理士:株価評価・事業承継税制などの税務
- M&A仲介事業者:売り手・買い手のマッチングなど
四葉社会保険労務士事務所では、労務・社会保険の領域を中心に、必要に応じて弁護士・司法書士・税理士・M&A仲介事業者との役割分担をご案内します。初回のご相談(60分まで)は無料です。費用は報酬額表をご覧ください。
よくある質問
Q. 株式譲渡と事業譲渡では、従業員の扱いはどう違いますか?
A. 株式譲渡は法人(事業主)が変わらないため、労働契約も社会保険・雇用保険の適用関係も原則そのまま継続します。事業譲渡は特定承継のため、労働契約を譲受会社へ承継するには労働者本人の個別の承諾が必要で、承諾しない労働者は譲渡会社に残ります。
Q. 事業譲渡のとき、従業員は必ず譲受会社に移るのですか?
A. いいえ。労働契約の承継には労働者本人の個別の承諾が必要です。承諾した労働者だけが譲受会社に承継され、承諾しない労働者は譲渡会社に残ります。事業譲渡等指針では、真意による承諾を得るため、事業譲渡の状況や譲受会社の概要、新しい労働条件などの説明・協議が留意事項として示されています。
Q. M&Aの前に、労務で最低限確認すべきことは何ですか?
A. 雇用契約書、就業規則、36協定、勤怠、未払い残業等、年次有給休暇、社会保険、雇用保険、労働保険、給与計算、退職金、労使協定を棚卸しし、未整理の労務リスクを早期に把握することが基本です。
Q. 社会保険・雇用保険の手続は、いつまでにどこへ届け出ますか?
A. 必要になる届出と期限は、方式だけでなく、法人・事業所が存続するか、新設・消滅するかによって異なります。日本年金機構・ハローワークの一次資料で個別に確認してください。
この記事の根拠
- 会社分割に伴う労働契約の承継等に関する法律(労働契約承継法、平成12年法律第103号)。会社分割の労働契約承継について通知・承継・異議申出を規定
- 労働契約承継法第2条(通知)、第3条(承継される事業に主として従事する労働者の労働契約の承継)、第4条・第5条(異議申出)。異議申出期限は通知日から少なくとも13日以上
- 厚生労働省「事業譲渡又は合併を行うに当たって会社等が留意すべき事項に関する指針」(事業譲渡等指針、平成28年厚生労働省告示第318号)。2026年5月25日適用の改正(令和8年厚生労働省告示第11号)
- 事業譲渡等指針:事業譲渡は特定承継で労働者本人の個別承諾が必要。真意による承諾のための説明・協議、過半数労組等との労使コミュニケーション。合併は労働条件もそのまま維持
- 厚生労働省「会社分割に伴う労働契約の承継等に関する法律」資料:承継される労働契約の労働条件は維持され、年次有給休暇・退職金などの勤続年数は分割会社におけるものが通算
- 会社法(合併・会社分割・事業譲渡・株式譲渡の制度。合併は包括承継)
- 健康保険法・厚生年金保険法(適用事業所の届出。事業主の変更は原則5日以内)
- 雇用保険法(適用事業所の届出。事業主・事業所変更は変更の翌日から10日以内)
- 日本年金機構「適用事業所の各種変更届」(新規適用届・事業所関係変更(訂正)届・適用事業所全喪届)
- ハローワーク「雇用保険事業主事業所各種変更届」「雇用保険適用事業所廃止届」
この記事は、誰に相談するかまで決めるものではありません。労務・社会保険・雇用保険等の手続、就業規則・36協定の整備、労務の棚卸しは社会保険労務士の業務です。事業譲渡契約・会社分割・合併などの契約の法的判断・交渉・紛争対応は弁護士、商業登記は司法書士、株価評価・事業承継税制などの税務は税理士、売り手・買い手のマッチングなどはM&A仲介事業者の領域です。四葉社会保険労務士事務所にご相談いただく場合の費用は報酬額表に、よくいただくご質問はよくあるご質問にまとめています。
本記事は一般的な情報提供です。制度の適用や自社の手続の要否・個別の判断は、最新の一次情報(厚生労働省・日本年金機構・ハローワーク・e-Gov等)と個別のご事情に照らし、面談のうえ資格者が行います。執筆は浦松丈二(社会保険労務士・行政書士・宅地建物取引士)です。
「人」のことから、整理しませんか。
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